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社会人の博士号取得

 2019年3月に筑波大学大学院で博士号を取得した。国家公務員・大学教員として働きながら博士号を取得した経緯を記録しておこうと思う。

 

 

 1992年に京都大学法学部を卒業後、国家公務員となり地方自治体と霞ヶ関を行き来する日々が始まった。20代での仕事は刺激的で満足のできるものばかりであったため、若手公務員向けの留学制度に応募する気持ちは全く起きなかった。社会のため実務能力を高めたいという一心で目の前の仕事に邁進した。

 

県の課長職に就いていた30歳前後からであろうか、もう一度大学で学びたいという気持ちが芽生えてきた。実務で走り続ける中で一度立ち止まってインプットを行いたい、という感覚だろうか。仕事を辞めるつもりは全くなかったので、続けながら学ぶ方法はないものかと思いつつ、先の読めない転勤や地方にいたことなどで、なかなか機会を見つけることは出来なかった。この間、母校の大学院に願書を出したこともあったが、結局受験することはなかった。

 

 転勤のタイミングがある程度自分で分かるようになったのは40歳を過ぎてからだった。札幌から東京に戻ることが決まりしばらくは東京にいるだろうということが自明となった。この機会を逃すと学び直しの機会はないと思い、札幌にいる間に東京で週末や夜間に通えるような大学院がないか探した。修士課程の場合、夜間に開講しているところはあっても、大抵は週に何度かは平日に通う必要があった。東京での勤務は多忙となる可能性も高かったため、色々と調べた結果、土日のみの出席で2年間で修士が取れるという社会人向け大学院を受験し、一期のみ授業料免除の条件を得て入学が認められた。

 

東京への転勤と同時に週末に大学院へ通う日々が始まった。唯一平日夜間に開講されるゼミにはやはりほとんど出席が叶わなかったが、志ある社会人が集まった学びの場は学生時代にはない刺激を与えてくれた。ただ残念ながら講義内容は実務的なものが中心で、改めて知的インプットと思索を行いたいという自分の目的とは違ったものが多かった。半年ぐらい経過したあたりから、2年間、土日の全てを潰すのが妥当だろうかとの疑問を持つようになった。

 

ちょうどその頃に仕事をしながら東大大学院で毎週1コマ教えるという新しいミッションを与えられた。土日を講義の準備に充てたいということもあり、結果的に1年間の在籍のみで大学院を中退した。自分の目的に沿った学びを行うためには、もはや教えられるのではなく、教える側に立ちながら自ら学び直すしかないのかな、とこの頃は思っていた。 

 

 

 その当時は内閣官房でマイナンバー制度導入という大仕事に関わっていたが、かつて赴任した県でCIOを務められた方とは時折お会いして役所の外から見たマイナンバーに対する意見やシステムのことなど色々とご相談をしていた。そんな時、その方が大学の教授になられたと伺った。お会いした際にお聞きすると県庁在職中に母校で博士号を取得されたとのこと。長いお付き合いでそんなお話は初めて伺ったので、驚きと同時に、今まで自分が抱えていた学びへの欲求と挫折をお話した。その先生はそれならやってみませんか、と背中を押してくれた。

 

修士課程を卒業していない自分の場合、修士2年と博士3年で最低5年はかかるのではないか。しかもかつて経験したように修士課程は時間的拘束が大きく仕事に支障をきたすのではないかとの心配があった。しかし博士課程の入学試験の受験資格には実務経験などによる個別の資格審査というものがあることを、この時初めて教えられた。これまでに書いた著作や実務経験をもとに研究計画を策定し、修士相当と認められれば博士課程の受験資格が得られるというのである。これまでの長い悩みに一縷の光が射した瞬間であった。

 

そんな話をしたのが夏ぐらいであっただろうか。その後、筑波大学のお二人の指導教官のもと秋の入学試験に向けて資格審査、研究計画の作成、受験と進み、翌年4月には筑波大学の大学院生となったのである。自分でも全く予想していなかった急展開であった。

 

 

 博士課程の3年間は最初思っていたよりも遥かに厳しいものだった。特に学位取得の要件である査読論文の投稿、そして博士論文の審査は実務家としてある程度の経験を積んだと思っていた自分の拙さや学識のなさを思い知らされる体験でもあった。ただ2年目に役所から大学への派遣が決まり大学教員となったことは大きな追い風となった。大学の恵まれた研究環境のもとで研究と論文作成に打ち込めたことはとても幸運だったと思う。

 

博士号の取得は多大な労力と時間を要し予想以上に大変なものであったことは事実である。しかし終わってみると自分にとって新しい世界が開けたことは間違いない。特に過去の研究者達による理論的知見の大切さを学んだことは大きな収穫であった。これからは実務と理論を融合させ、社会にとって有益な政策の選択肢を生み出していきたいと思っている。